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執筆記事:  現代ビジネス5月27日 記者は志ある「ゴロつき」でいましょうね

取材中に集団暴行され「文春砲」のお世話になった元朝日新聞記者の告白  マスコミとネタ元の距離感


記者とメディアの「距離感」は昔からの大きなテーマです。


世の中が変わって私のような50代の記者が言うことは、時代遅れかもしれませんが、この「距離感」については常に考えておく必要があります。


取材対象の懐に飛び込んで内部情報を取るかと思えば、逆に取材対象からいったん離れて遠くから眺めながら辛口で論評していく、その繰り返しが重要です。取材対象とは「癒着」したかと思えば、後ろから不意打ちをしたりすることで、適切な「距離感」を保ちます。


そんな行為は親しくなった人への裏切り行為ではないかと思う人もいますが、そうなんです「裏切り行為」です。
その「裏切り行為」で人間関係が終わってしまえば、それまでです。しかし、「裏切り行為」を乗り越えて、また近づいていくという厚かましさも必要です。


記者をやっていると、人間として最低のことやっているのではないかと、自分のことが嫌になることがあります。厳しい取材をすればするほど、そうした経験をするものです。


はっきり言いますが、記者って、そんなに誉められた仕事ではありません。昔は「羽織ゴロ」とか「新聞ゴロ」と言われていましたし、テレビドラマでもジャーナリストが取材で知ったネタを元に大物政治家をゆすって金を取ろうとして殺害されるといったような話はよく出てきますよね。


今では金をゆすったりする記者はいないでしょうし、私はやったことはありませんが、昔は書かない代わりに裏金をもらったり、自分も政治家にしてもらう記者が、永田町周辺には多かったと聞きます。



要は、記者ってそんな決して誉められた商売ではないのに、いつのまにか学歴エリートが記者になって、鼻持ちならない自分たちが権力だと勘違いしている人が増えたことは事実です。
率直な物言いなので、不快に思う人もいるでしょうが、学生運動やり過ぎたことで警察に検挙され、いわゆる「前科者」であったため、普通の会社に行けなかった人が新聞社にけっこう入っていました。
朝日新聞社の中にも、東大法学部卒なのに、電機メーカーの非正規の期間従業員経由で入社した人がいました。時代は変わってそんな人はもういないでしょう。



デジタル化の時代を迎えて紙媒体の存在感は低下しましたし、メディア自体の経営も傾き始め、給料や取材費も下がる一方ですが、記事を書く行為自体はどんな世の中になってもなくならないと思います。
その理由は、「瓦版」はいつの時代にも必要だからです。

「瓦版」はタブーなき媒体だったと思います。江戸時代、身体障害者で「小便公方」と呼ばれた9代将軍、徳川家重が、江戸城から外に出た際には何回小便に行ったかを書いた「瓦版」もあったそうです。
今だったら「権力者とはいえこれは人権侵害だ」と批判されるかもしれませんね。
そういえば、安倍総理は腸の病気で第一次政権を手放したことも関係してか、俳優の佐藤浩市さんが総理を演じた映画で何度もトイレに行くシーンが描かれた時に、「安倍総理に対する人権侵害だ」と騒いでいた人たちもいましたので。


時代は変わりましたので、権力者でもプライバシーがあるし、権力者でも人権は配慮されるべしというのが当然の流れになっています。私もそれを完全には否定しません。


しかし、記事を書く行為の本質は「瓦版」にあると思っています。権力を持っている人、ふだん偉そうにしている人、有名人の実態は、実はこうなんだと、世間に知らしめることです。特に権力者の実態を知らせることは、知る権利にこたえることの一つだと思います。それについては、かなり突っ込んで書いても、それは憲法で保障された表現の自由の範疇に入ると思います。



知る権利にこたえるためにも、取材対象の懐に飛び込むことが求められます。その目的を知らない人からすれば、取材対象の懐に飛び込むための行為の中に世間一般から「癒着」と見られても仕方ない行為があると思います。新聞記者は基本は「ゴロつき」なんですから(笑)
懐に飛び込むためには、賭け麻雀もするでしょうし、一緒に酒食も共にするでしょう。今は、麻雀したり、健康志向で酒もそんなに飲まない人が増えたので、一緒に登山したり、釣りをしたりする人もいるでしょう。


しかし、そこで問われるのは、読者のために結局何を書くかです。飛び込んだ相手が嫌がることを書くことが求められます。「親しき仲にも批判あり」なのです。
私は読者のために、志のある正しき「ゴロつき」でありたいと思っています。



私は常にこういう姿勢できました。私は自動車産業の担当が長いです。その経験を生かして今は、企業経営の在り方や組織マネジメントなど様々な経済事象に関することを論評しています。付き合いの長い自動車メーカーとは、世間一般から見れば癒着と言われても仕方ない行為、たとえば酒食の接待を受けるなんて日常茶飯事です。もちろん私や、私を使っているメディアが酒食の代金を支払うことも多々あります。


そういう関係の企業・組織、その経営者に対しても私は堂々と批判記事や嫌がる記事を書きますので、トヨタやホンダからは一時期出入り禁止処分を受けていました。


そうした批判記事を書いていると、逆に今度は、懐に飛び込まなくても企業の内部から実は情報提供が始まるのです。組織をよくしたいと思っていても、社内権力に抑圧されている人たちが、この記者に本当のことをしゃべれば、曲げずに書いてくれるのではないかということです。企業に限らず、役所でも似たようなことがあると思います。ここは取材テクニックとしても一つのポイントだと思います。


役所や企業の発表した内容を記事にしていれば、記者の仕事はある意味で楽です。
しかし、業界用語でそれを「横縦記者」と言います。


A4の紙に「横」書きで書かれたニュースリリースを、新聞や雑誌の「縦」書きに変えていくだけ、という意味からで、そういう記事はいま、人工知能(AI)が書いてくれます。


記者は、その発表記事に「付加価値」を付けることが求められます。たとえば有識者の見解をコメントとして付けたり、自分の見解を解説として付けたりと、そのやり方は様々です。


ワイドショーは主にこの手法です。新聞記事や発表情報をベースに、コメンテーターが意見を言います。コメンテーター同士の意見が違ったりして時には論争になります。その内容は、井戸端会議的であったり、ネタトーク的であったり、真相に関してかなり深く突っ込んだりしていて、そのやりとり自体が「付加価値」なわけです。それをくだらないと思う人もいるでしょうし、為になった面白かったと思う人もいるでしょう。



そして最も大切な「付加価値」は、記者が取材しなかったら表に出ない、すなわち読者が知りえないような話を書くことだと思います。
それは、裏金の存在を暴くとか、談合の実態を暴くとか、隠された犯罪行為を暴き出すという大上段に構えた話だけではなく、役所や企業など権力を持つ組織が、どのようなやり方で意思決定を行い、実行しているかを観察して書くことです。特にトップ・幹部の人事、提携やリストラ、経営戦略など重大な意思決定に関してです。特に人事の背景を追うことは、組織を深く観察していくためには欠かせないと思います。


そのプロセスでは人間も深く観察します。当たり前ですが、組織の意思決定は人が行い、人が実行していますので。実はそれが簡単なようで難しいのです。


人を観察するうえで、役立つことはその相手と酒食を共にすることです。特に麻雀は、相手の性格を見るのにうってつけの「場」です。せこい、強引、汚いといったような普段見えないことが見えるケースが多いです。


私は経験ありませんが、私の知っているベンチャーキャピタリストは高級品の「買い物」を一緒にすると相手のことがよく分かると言う人がいました。その会社に投資するか否か最終決定の前に、「買い物」に一緒に行ってそのビヘイビアを観察するそうです。そのために奢るそうです。


余談ですが、「黒川賭け麻雀問題」に関して、どこかの記事で読んだのですが、黒川氏は麻雀をしていて相手に振り込むと、自分の手を開いて見せて、「俺もこんな手だった」と言うそうです。
そういうビヘイビアの人に、麻雀の強い人はいません。むしろ下手だったのではないかと想像します。
麻雀は、上がることよりも、いかに振り込まないかを競うゲームでもあります。自分にいい手が入った時こそが実は「罠」が多く、つい勝負して振り込むことが多いかに思います。
そういう我慢が足りない人には、自信家ゆえに周囲が見えず自分の手に酔っている人が多いです。私は会ったことも一緒に麻雀したこともありませんが、黒川氏はそんなタイプの人だったのかもしれません。



話を戻しますと、
こうした取材対象との「距離感」の取り方について、何か教科書に書いているわけではありません。
数多くの失敗を積み重ねて、体得していくようなところがあります。
このホームページにアップした記事も私の若い頃の失敗談です。


黒川氏と賭け麻雀していた記者たちも、「距離感」を意識して麻雀していたのであれば、私は賭けたことを否定するつもりはありません。繰り返しますが、記者は「ゴロつき」なんですから(笑)
しかし、どうも今の司法記者の中に、あのようにして付き合って、法務・検察の都合の悪いことを書いている人がいるのかといえば、それはおそらく皆無に近いと思いますね。世間もそれを薄々知っているから癒着だと大批判が起こるのでしょう。時期もよくないです。あの「三密」回避の時期ですから。


黒川氏も自分の人事が注目されている時期に賭け麻雀するわけですから、わきが甘いというか、依存症なのかな、と思ってしまいます。


私が言いたいことは、取材対象と一時的に「癒着」することは絶対悪ではない、ということです。結局、読者(有権者)のために何を書くのか、その姿勢と内容が問われているのです。



「黒川賭け麻雀」の問題で言えば、「ゴロつき」らしく一緒に賭博行為をしながら、黒川氏から一連の定年延長人事の背景に何がったのか聞き出せよ、聞き出せなくてもヒントくらいつかんで、それを書けよと言いたくなる。
書かないと、賭博行為までして「癒着」した意味がなくなる。


どうせ世間は「賭け麻雀」の善悪の問題ばかりに気が行って、本質的な問題に気付かないのだから。それこそ、「黒川問題」の背後で蠢いている人たちの思う壺でしょう。




「癒着」したり離れたりしながら情報を取り、内実をえぐり出すような記事でないと、面白くありません。特に知識水準や問題意識の高い読者は獲得できません。はっきり言いますが、要は銭にならんということです。


ここまで書いたついでに最後に申し上げます。読者がメディアにへきへきして「マスゴミ」と蔑んでいます。
何度も繰り返しますが、記者は「ゴロつき」、かっこよく言えば、志ある「ゴロつき」なので、私の場合蔑まれても構いませんし、気にしません。むしろなぜ「マスゴミ」と言われるのか、その本質的な理由を考える必要があります。


私の個人的な考えとしてその理由の一つに、「みな同じようなことを書いている」ということがあるのではないでしょうか。新聞もテレビも、大きなニュースが発生すれば報道している内容は大体同じです。


これを「スタンピード現象」と言います。大きな動物の群れに外敵が侵入すると、襲われた場所とは遠く離れたところにいる動物は何が起こったのか知らなくても走り出す現象のことです。一種の動物の本能のようなものなのでしょうが、メディアの現場でも似たようなことが起きているのです。


メディアがそれをやれば、集団暴走行為にもなってしまいます。
何が起こっているか、深く考えずに、とりあえず他社が取材するので、「うちも」と言って雪崩をうったように押しかけ、報道する内容は結局どこも一緒ということがよくあります。そこで人権侵害的な行為があれば、多くのメディアが似たようなことをやってしまい、それがSNSに乗って拡散していき、傷つけるべき人でない人を、傷つけてしまうことになります。


ニュースの現場に素早く駆け付けることは重要ですが、それを報道する時には一歩とまって冷静に考えてみる。時には他メディアよりも遅れていい代わりに、うちは違う手法でもっと深くやる、といった考えを持つことが、「マスゴミ」と言われないためにも大切ではないかと、自戒の念を込めて申し上げます。





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